深瀬昌久『鴉』

Essay

もう14年前のことになってしまったが、深瀬さんの「鴉」の写真集をつくることになって、 その編集の場に立ち会うことができたのを幸運に思っている。その数年前から僕は深瀬さんの仕事を手伝っていて、深瀬さんが「鴉」を撮り始めるごく初期のころからその一部終始を見ていた。闇夜に舞う鴉をいくら高温の現像液に浸して増感してみても、その姿は暗いセーフライトのもとでは何も見えなかった。 お湯のような液に30分浸けても、画像は現れない。とにかく微かな気配が感じられるまで現像するほかなかった。何も写っていないフィルムを現像しているようなものだ。ところが、できあがって明るい部屋でそれを見ると、木の枝に夥しい数の鴉がとまり、眼だけを光らせていた。真っ暗な夜空に黒い鴉、風で揺れているのかそれとも深瀬さんが握るカメラがブレたのか、わずかに揺れる木の枝のシルエット、プリントして見るまでもなかった。ネガを覗き込み、ふたりして感動したものだった。

見えないもの、写らないものにフラッシュライトを照射し、それでも立ち現れないものを写真家は待ち続けていたにちがいない。不吉なものが纏わりつき、そこここに見え隠れする影は鴉そのものではなく、深瀬さん自身だ。孤独を愛してやまない写真家の姿だ。

冬の北海道、夜の雑木林に分け入ってまで写真家が見たかったものが何であったのか、そこに写る葉を落としたケヤキに群れる美しいまでの鴉の姿が雄弁に物語っている。

この写真集の編集の最終段階になって、深瀬さんは1枚の写真を見せてくれた。「この写真を入れようかどうか、迷っている」と言って出したのは、キャビネサイズの小さなプリントだった。飲み屋の薄暗いカウンターでのことだったから、暗くて何も見えなかったが、電灯に近づけて見ると、真っ暗な空に数羽の鴉がぼんやり写っていた。もはや姿形は原型をとどめていない。見ようと思えば鴉にも思えるが、ただ見せられたら、それが何であるかわからないはずだ。もう写真とは言いがたいものになっていた。なぜかその時、僕はその写真に胸を揺さぶられ、いまだに忘れることができない。「深瀬さん、ものすごくいい写真ですね」と言ったことを憶えている。もしかしたら、この30年でもっともいい写真の1枚として残るだろうとさえ思っている。

(初出:『写真集を読む』)